ふるさとで暮らすこと

しばらくご無沙汰しておりました
みなさまいかがお過ごしでしたでしょうか?

おかげさまをもちまして
【minoriplus+Shop】の試験運転にこぎつけることができました
少しずつ改良していきたいと思っておりますので、
みなさまのご意見・ご感想などお寄せいただけると幸いです

いまさらではありますが、
初めての方もいらっしゃると思いますので
今日は、私の仕事についてお話したいと思います

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私が生業としている「大野木工」は、
私の住んでいる(旧)大野村で三十数年ほど前に始まった産業です
当時、大野村は地元に目立った働きどころが無く
収入を得るために北海道や首都圏へ出稼ぎに出なければなりませんでした

大野の土地は「やませ」と呼ばれる特有の気候があり、
春から初夏にかけて冷たい空気が流れ込むことがあります
先刻まで晴れていた空に白く霧がかかり
日照をさえぎり気温が10度以上下がります

この特有の気候のため農作物のできがよくなく
農業が成り立つとは言いがたいもので
かろうじて成り立つものといえば酪農
それでも本場・北海道などに比べれば規模も小さく
また、業者の生産調整に縛られて、稼ぎとしては厳しいものでした

そのため、男は中学を出るとその多くが仕事を求めて
ふるさとを離れ出稼ぎに出て行かなければなりません
当時言われた言葉が「出稼ぎ人口・日本一の村」・・・
揶揄でもあり事実でもあったのです

当時の出稼ぎ大工の男たちを象徴する話があります

盆・正月に家に帰ってくる
知らないうちに子どもが生まれていた
次の年も、帰ってくるのは盆正月だけ
自分の息子が、
「よそのおじちゃんきたよー」と言って隠れてしまった

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家族を養うために
家族と離れて暮らさねばならない矛盾
その多くが選択の余地など無く
他に手段を持たない者ばかりでした

時はバブル前夜の経済成長期・・・・
大量消費の波は地方の山村に歪みをもたらします
豊かな森林資源は
潤沢な資金のある関東関西へ野放図に安く買い叩かれ
地元にはなんら益することなくその先を細らせていきます

そんな折に、数奇な繋がりからの
ある出会いが大野に希望をもたらします

天井知らずに伸び上がる日本経済の行く末を早くから懸念し
ものづくりの将来、
ひいては日本のあり方にまで提言と警鐘を唱えていた
稀代の工業デザイナー『秋岡芳夫』

この方は、
大野村の姿に日本の地方・山村の縮図を重ねました
大量に作り大量に消費する経済主義
このままでは作り手は自らの未来を失い
使い手は寄る辺を無くしてしまうということを

田舎に暮らす人達が
地元に残り、誇りを持って生きていけるように
大野村の再生に日本の地方の創造を託したのです

この方は村にこんな提案をしました

冬は生産
夏が来たら、一部を観光客に解放して、都会の娘たちに手をとって
ロクロを教えてやりましょう。
観光客がこんな盆挽いて欲しいと言ったら、はいよって目の前で挽いてやりましょう。
里モノは注文がきいていいモノ作りなんだってなあって、感心させてやりましょうよ。
4年目にはホームスパンの工房も。
ホームスパンの工房も2階建に。どこの丘に建てましょうか。
あの白樺の谷を見下ろす、そうですねあの南斜面がいいかも知れません。
ホームスパン工房のお隣に染の工房も建てましょう。機織の工房も沢山作って、
冬はサマーウールを織って夏は里モノ作り教室。
5ヶ年計画で、ねえ村長。
「里モノの里」をつくり上げませんか。
冬は生産。夏は観光。建物と設備は生産と学習の両方に使い分けられるように
設計しては勉強と生産に使ったら・・・・・・
夏は都会の連中の教室に開放して・・・・・・
見せて里モノづくりがどんなに楽しいか。
ちょっとやらせて里モノづくりってなんて面白いんだろう。
目の前の注文のものを作ってやって、なんて里モノ作りって素敵なんだろう。
2泊3日させて里モノ作りの技術を覚えさせたら、きっと都会の連中、
またやって来ると思うんです。
大野村に住みたいなって娘が出てくると思いません? 東京や大阪の娘が。
ねえ村長
バターチーズの工房と、
ホームスパンの工房と、
焼き物の工房と、
ロクロの工房と、
家具の工房を作りましょうよ。大野に。
漆器の工房も。
5年もかけないで、2,3年のうちに作っちゃいませんか。
大野には
広々とした大地がある。
なだらかな丘の牧場に
雉がいる。羊がいる。乳牛がいる。
近くの山に、安家の山々に、もったいないような、
楢や栗や栃やみずめ桜や黄肌が、まだ残っている。
急いで池を掘ってそこに栗や楢の木を沈めて水中乾燥しよう。
大野には木工の技術がある。千人を越す大工がいる。
栗や楢が村の池で乾いたら彼らがきっといい里モノに安家の木を生かしてくれる。
大野は隣の村や町に恵まれている。
久慈には小久慈焼の青年がいる。
浄法寺には日本一の漆かきがいてくれる。
ホームスパンの先生が、盛岡にも東和町にもいてくれる。
大野は素敵な技術をもった隣村に恵まれている。
そしてなによりも大野の人達には豊かな手持ちの時間がある。
「冬の時間」に恵まれている。
里モノ作りに欠かせない時間が・・・・・・
これまでは出稼ぎに消費して来た冬の時間がある。
ねえ村長。
大野を「一人一芸の村」にしませんか。

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身の回りにあるものを使い
自分達の暮らしを豊かにする工夫
無いものを欲しがるのではなく
あるものを生かした暮らしかた

それまでちり紙の原料にするしかなかった木材を
自分たちの手で加工して暮らしの道具に

それまで生産調整のために捨てなければならなかった牛乳を
自分達の食卓を彩る食べ物に

時間がある
空間がある
そして人がいる
足りない技術は学ぶことができる

こうして、村の人たちの手に
新しい生き方のきっかけがもたらされたのです

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それから三十数年

社会のあり方も少しずつ変わり
それでも変わらず、田舎からはどんどん人が減っています

理想の姿を知ってはいても
描き続けることが叶わず
大きな流れに抗うこともできず

最盛期には30人を超えていた大野木工の職人も
今では半分ほどになってしまいました

かつては、地元で暮らしたくても暮らせないといわれたふるさと
いまはもう、望んで暮らしたい場所ではなくなってしまったのかもしれません

でも、不思議なことに都会に出ると、岩手にそして大野に行ってみたい、
ということを言われます
田舎に暮らす者は都会を求め、都会に暮らす人たちは田舎を渇望しているのかもしれません
人は豊かさを求めて都会へ出て行きます
物質的な豊かさに満たされ、望んでいた暮らしのはずなのに
なぜか目に見えない大切なものが失われていくように感じているのでしょう

もうここまで来てしまった今
多くの人が感じているでしょう
このままいくと、大変なことになると
私たち、そしてこの先の世代の人たちは
これからその苛烈さを味わうことになるでしょう

でも、ささやかな希望もあります
決して少なくない人たちが今気づき始めていること

もう一度、原点に立ち返ろう
一つひとつ考えた先に
本当に大切なものがあるはずだと

そうしてやっと気づいたときに
求めていたものがどこにも残っていなかったら
きっと悲しいと思うから

ここまで読んでくださいましてありがとうございます

私のものづくりは
そういうものを残していくお仕事です
なかなか理解はされません
それでも、ここに立ち寄ってくださったみな様に
私の仕事がすこしでも幸せの貢献ができますように

1人のご厚意をいただいております