田舎の情景・初

4日間の仙台出張から帰ってきた次の日の朝、
まったりとお茶を飲んでいた私に母が言いました

子どもの日の祝い方とくらべて母の日のそれのおざなりなことに不満があるそうな。
いや、不満というほどのものではなく、そもそもそれほど意識していなかった
という旨の会話だったのですが。
都会では田舎よりも、このような祝い事やお彼岸の墓参りなどを
きちんとしているような印象を受けます
仙台出張中に私が見た街の人々を思い出し、
都市部では母子で出かけたりすることも珍しくないことを言うと

母「都会は田舎の出身者が多く住んでいるから」

言葉足らずですが、なかなか深いことをおっしゃる
聡いところはあまり無い母ですが、時々本質を鋭く突いてきたりします。

私の親戚筋は都会に出て行った人達も多く、特に若い世代ほどそれは顕著です。
私の同級生などは、多分ほとんど地元に残っていないでしょう。

話の流れで、母の兄弟も都会に出た人が多いのかと尋ねようとして・・・、ハタと気づく。
そういえば、オカンって何人兄弟の何番目やねん???

衝撃でした
30年以上この人の息子でいたのに、

母についての基本情報を全く知らないというこの状況(笑)

母と二人で大爆笑

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田舎では封建的な旧い考え方がまだ残っており、いわゆる男系を尊ぶところから、「嫁」になった時点で、生家との関係はほぼ無くなったようなものでした。

そのため、父方の家系や事情についてはよく話題に出ますが、反対に母方の情報というのは意外なほど少ないことも多いです。

そういえば、祖父の兄弟やそれらの事情は知っていますが、祖母についてはあまりしらないということに気づきました。話してみると、母も同様の様子。二人の知る情報をつなぎ合わせると、どうやら9人兄弟ではないかな、という事が分かりました。兄が3人妹が5人(うち、2人は戦争で亡くなっているとか)

祖母の時代は、嫁の行き先というものは「家」と親の事情でほぼすべて決まっているもので、祖母自身も例外なくそのように嫁いできたそうです。

嫁入りが決まった日、どこに行くかも知らされずただ家を出て行かなければならないという状況だけが悲しくて、囲炉裏の隅に隠れて一人泣いていたそうです。
嫁に来てからは、実家に帰ることも殆どなかったそうで、文字通り家系に組み込まれていたのでしょう。

私の思い出で印象深いのは、私が車の免許を取得したばかりの頃。
祖母の妹が入院したので見舞いに行きたいと言い、車で隣街まで乗せていった帰りのこと。

めずらしく、ちょっと寄り道をと祖母の言った行き先は祖母自身の生家でした。
嫁に来てから60年ほども経って、記憶も定かでは無いらしく何度か行ったりきたりしながら目的の家を探しました。
なにしろ突然の訪問だったので、家に誰もいないのではとも思ったのですが、
60代と思しき女性が出てきて中に招いてくれました。
自分達の素性を話すと、よく来てくれましたね、と
にこやかに歓迎してくれたのをおぼえています。
こたつに当たりながら、当時の思い出話をして、仏間の壁に並べられた写真を指差し、

これがおらの兄貴、
これは親父、

と祖母は記憶を確かめるように自分の兄弟を紹介してくれました。

帰り際に祖母は周りを見回し、
景色がすっかり変わって他所に来たみたいだ、
けどこの牛小屋は見覚えがある、とうれしそうにしていました。

祖母が、自身の思いから生家を訪ねたのは、おそらくこれが最初で最期だったと思います。
小さい頃から親が共稼ぎだった私は、祖母に育てられたようなもので、
祖母との思い出は今でも胸を打つものがあります。
私は、この人の生きた記憶を忘れずに伝えていかなければなりません。

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